躁鬱病を受け止める事の難しさ~家族の場合~

先日からこのテーマで考えています。

私自身の苦悩等しか記していなかったので、なんか違う違うと思いながらも、

更新してしまい、モヤモヤしていました。


私は人のせいにするのが苦手で、ずっと自分を責めて来ました。

だけど、先日の文章では家族のせいにしている節があります。

そこがとても難しい所で、けして家族が悪いとは思っていません。

私の病気は、自分自身の中にありますが、その背景にとても影響されている、と言うことでしょうか。

時代背景、幼少期の家庭の雰囲気、親の性格や考え方、周りとの調和の仕方、

旦那の性格や考え方、本当に様々な事が折り重なって、そこでうまく自分というのを

コントロール出来なくなっていた、という感じでしょうか。


この病気で家族は本当に苦悩していました。

両親は特に娘が生まれてから近くに住んだのをきっかけに、

とてもとても協力をしてくれて、私も頼り切っていました。

父も母も出来る限りのことをしてくれていました。

感謝しているし、それがなければ今の私はないと思っています。


旦那もほぼほぼ単身赴任ですが、彼なりに考え、苦悩し、私への対応の仕方を

考えていた。でも、うまくいかないことが多く、辛い気持ちを抱えていた。


そして私もどうしたらいいのか分からずに、とにかく振り切る為に何も考えないようにする

時期も多くありました。


自分自身も本来の自分を見失っているのに、

それを周りに忘れたの?と言うのも酷なのかもしれません。


でも、両親だったら、幼少期の天真爛漫で無邪気な頃を知っているのです。

旦那だったら、出会って付き合った頃の楽しく元気な頃を知っているのです。


でも、それは躁の形相の時の恐ろしいまでの私の姿を見て、全て消し去られたのかもしれません。



そこが私の思う偏見と無理解と言うことにつながるような気がしています。


母は特に昔人間で、思考の仕方が偏見に満ちた考え方を持っている所があります。

自分が母になり思うことは、母の愛情より偏見が勝ってしまうのか、という怖さを覚えます。


偏見というのは、自分を守る為の防御のようなもので、それをする人間は

心の奥底に弱さを持っている為なのではないかと思います。


そして、全てを私の病気のせいにして、現状を顧みないと言うこと。

病気に至るまでになるのは必ず私の場合は原因がありました。

それをそのたびに問題視することをせず、私の心の弱さのせいと、自己解決するべき所が出来なかっただけだと、そう片付けられていたように思います。


人のせいにするというのは、とても簡単で自分が楽になる方法なのです。

考える事をストップ出来るのです。

そうじゃない、物事をしっかり考えなければならない。

考えてもわからないから、私はずっとしんどくて、それでも考える事を止めずに

続けてきました。


正しいか悪いかの判断は、なかなか難しいものです。

私もずっと自分を責め続けてきたので、その判断がうまくできなかった。

専門家を頼って吐き出す事が第一だと思います。


私は専門家ではないけれど、自身の体験と内観することを続けてきて、

ひとつの確実な糸口である傾聴が大切と言うことに長年の研究でたどり着きました。


まず、身近な人に聞いてもらう、難しければ、信頼の出来る機関を探して相談に行く、

しんどいなら医療機関に勇気を出していってみる。

第三者に聞いてもらう事で必ず糸口は見つかるはずです。




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